いま話題の「推し燃ゆ」をオタクが読んだ

いま話題の芥川賞受賞作品「推し燃ゆ」を読みました。

一種のオタクとして読まなきゃいけないと使命感に駆られました。ネタバレしない程度に私の感想を。

推しといっても最近じゃ、アイドル、アニメ、ゲームなどさまざまな相手、生きてるかどうかだけでなく使われるところが増えてると常々感じています。

「推し」という言葉に対するハードルが下がっているんだと思うし、それもある種文化のひとつなんだろうね。私にとっての「推し」はこの本と同じように生きていて、私にとって「推し」の条件といえば「人間らしく生きてること」だと思う。悲しいとか嬉しいとかそういう感情を表に出してくれると一緒に生きているんだって思えて嬉しいし、庶民的なところを見ると同じなんだなって思えて嬉しくなる。

「推しがいるから生きてられる」っていうのもあながち間違いじゃないと思う。いまこの状況下なのでなんとも言えないけど、ライブにいくために毎日頑張って働いてる、勉強を頑張る、バイトを頑張るとか日々の糧になってるのはたしかで「推しに会うために頑張る」んだと思う。私の推しは歌うから、その歌に勇気づけられることだってあるし、その曲に対しての思い出だってある。もし私の推しが芸能界からいなくなる、もう一生会えなくなるとしたら生きていけるのだろうか。そういう時がいつかは来ると思ってはいるけど、実際に受け止められるのかとかその時が来てみないとわからないもので。オタクしてるのは最高に楽しいけど苦しいこともたくさんある。他人の夢を一緒に追いかけてるからそりゃ苦しくて当たり前だけど。推しが生きてる対象の人なら、推しにはひとりの人間としての人生があるし、意思もある。こちら側の思ってるとおりにいかないこともあるし、見えない闇も感じます。あちらとしては商売なので推しの意思が尊重されない悲しいこともそりゃたくさんあります。あの時はよかったよねって思うこともあるし。結局オタクをやめられないのは自分にとって推すだけの価値があるから。チケットの当落に一喜一憂するのもなんだかんだ楽しいし、ライブ会場がおっきくなったり、メディアにでられたり、魔法使いさんの伏線を探ることだって楽しいし、別界隈でいくとこんなお仕事できるようになったんだって成長を喜ぶことも嬉しい。幸い私は推しの恋愛には興味がないし、結婚したいとも付き合いたいとも思わないので結婚できた日には素直におめでとうって言えるんだろうね。ケーキ買ってきてお祝いしてるかもしれない()今までの体験のなかで正直私は今までのカタチが変わってしまうことが1番辛かったな〜。どうやって推すかなんて各々の勝手だと正直私は思うけれど、推しに迷惑だけはかけたくない。「〇〇オタは〜」って言われるのだけは絶対に嫌だし、SNSで勝手にエゴサできる時代だからこそ目に見える批判もしたくない。人対人というのを忘れたらいけないとそう思います。何が言いたいのかわからなくなってきたところではあるけれど、結局は今日も元気でいてくれてありがとう!なのです!オタクって最高に楽しいよ!!!

いつもエンターテイメントを作り出してくれてありがとう!!!

これからもどうぞよろしくね!!!!

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